MY HERO’S INTERVIEW

GUEST プロフィール
勝村えみ子
1963年 岩手県陸前高田市生まれ
岩手県立高田高等学校、青山学院大学出身。モデル、専業主婦(15年間)を経て大手レストラン事業会社社長秘書、広報、芸能プロダクションマネージャー、キャスティングディレクターとして活躍。大学時代塾講師の経験をもち、東日本大震災をきっかけに、現在は日本語学校教師として教壇に立つ。ご主人は俳優の勝村政信さん。そして二十歳になる一人娘がいる。


えみ子さんとは“admires”「褒めあう会」という大人の友達が集まったグループの仲間。かれこれ十数年来のお友達です。美しくて清らか。そして穏やかで、大人の気遣いが出来る。頭脳明晰だから話がブレない。的を射たコメントもさすが。しかも遊び心も持ちあわせている、是非お手本にしたい私の憧れで大好きな女性です。

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NO.4 わすれない東北311。振り幅の大きな人間でありたい。

立河:えみ子さんの地元、陸前高田はとても被害が大きかったよね。

勝村:うん。私の両親、兄弟の無事を確認できたのが震災の3日後だったの。友人がネットで避難者名簿に名前があるのを見つけてくれて。それから何日かして、娘は友人の実家の名古屋へ預けて、パパと二人で車に積めるだけの荷物を積んで行けるところまで行こうって。道路は地割れしてガタガタだった。サービスエリアに入ってもほとんどが閉まっていて、ふと周りを見渡すと自衛隊と物資運搬車ばかり。友人宅で一晩過ごしてから、翌朝避難所に向かったの。

立河:ようやく家族に会えるのね。

勝村:向かってる最中にね、突然景色が変わった瞬間があったの。道の両側の家がグチャグチャで壊滅状態。ここはどうなってるの?って。ニュースでは見てたけど、それが現実なのか作り物なのかわからなくなるくらい。その凄まじい光景を目の当たりに呆然として、ただただ涙が出てきて…。その時にパパがギュッと手を握ってくれたんだよね。言葉はなかったけど、やっぱり居てくれて心強かったし、本当に支えになった。

立河:

勝村:その日は震災から9日目くらい。近くにはブルーシートが所々敷いてあって自衛隊の方が旗を立てていくの。それはご遺体の位置なんだよね。一日何百というご遺体を収容しないといけないから地元の消防団の人たちも率先して活動してた。その消防団の人たちは避難所から出かけていくんだよ。彼らも自分の家を流されてしまった被災者だから。

立河:なんて過酷な・・・

勝村:消防団の友人が辛そうに話してたの。ご遺体を収容する時の感触が今も忘れられないって。中には知り合いのご遺体もある。でも日を追うごとにもう悲しんだり、びっくりもしていられない状況になっていったそう。

立河:凄まじかったね…

勝村:私はご遺体も目にはしなかったし、安置所にも行ってないけど、もしうちの両親が逃げ切れなかったら、探し回らなきゃいけなかった。津波だから、流されてしまってどこで見つかるかわからないの。実はね、漁港の前で美容院を営んでいた母の妹、私の叔母が津波で亡くなったの。いとこや弟が安置所を回って探してたんだけど、結局8月に海の中で見つかったの。ちゃんと靴も履いてたしエプロンもしめていて。遺体の損傷が激しくて身元の確認が難しい中、叔母はちゃんとわかったんだって。亡くなったことはとても悲しいけど、見つかったことが良かったねって。

立河:そうだったの。本当に言葉が出ない。合掌。弟さんと英会話ごっこして遊んでいた商店街にあったご実家は…?

勝村:もう跡形もないよ。何もかもなくなってわかったの。平地だもん。これは波も来るって。アーケード街だったんだけど、たったの5分でその全てがなくなったの。

立河:どれほど恐ろしかったことか。ご家族はどうやって避難されたの?

勝村:“地震”の被害はそれほどなくてね、家の中の落ちたものを両親が片付けていた時に弟が来て逃げるよって。まさかあんな津波が来るなんて思ってもいないから最初は逃げなくても大丈夫って呑気にしてたみたいだけど、ダメだ、行くぞって手を引っ張って。表に出て100mほど歩いた時、交通整理をしていた警察官の「逃げろ!」って叫び声で走り出して、弟が後ろを振り返るとドン突きにある駅の上から黒いものが襲ってくるのが見えたんだって。両親には「振り返らずいいから走れ!」って二人の手を引っ張りながら丘を目指して200mくらい走ってなんとか登って難を逃れたけど、でも水しぶきをかぶったそう。

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立河:それは本当に恐怖よね。

勝村:うん。母が振り返ったらもう、流れる屋根しか見えなかったって。本当に危機一髪。あと30秒遅かったら…。

立河:どれほどのショックを受けたか…本当に計り知れない。

勝村:それで中学校の体育館での避難生活が始まるんだけど、70歳以上の人は畳1畳を支給されたの。だから両親2畳分がうちになったの。もともと自分の住んでた家の位置関係があるじゃない?面白いことに避難所でも自然とそのまんまの位置になってるの。(笑)

立河:ご近所さんが集まってるのね。

勝村:そう。馴染みのある隣近所といれるようにって。うちの斜め向かいにとても明るくて気前の良いおばちゃんがいる床屋さんがあったのね。私が実家に帰ると必ず母は着いた日、帰る日はおばちゃんに挨拶に行きなさいって言うから挨拶して、一緒に写真を撮るのが恒例行事だったんだけど、そこは避難所だからさ、ついたらまずは生きててよかった、でしょ?なのに母は斜め向かいを指差してそこにおばちゃんいるから挨拶してきなさいって。(笑)

立河:あははは!習慣なんだね。

勝村:そうね。その位置関係が落ち着いたんだろうね。(笑)その避難所は秩序が守られていて役割も決まっていたし、お互いに面倒みたり慰めあったりしていて、田舎の人の良さというか、日本人て素晴らしいと思った。

立河:今、復興の最中だよね。

勝村:まだまだ道のりは遠いけどね。

立河:またみんなが安心して暮らせる町に早くなるといいよね。さて、えみ子さん、今は外国人に向けた日本語学校の先生をしてるよね。そのきっかけが311にもあったんですって?

勝村:この震災の時、日本語がわからなかったから、うまく避難できなかった外国の方もいたと聞いて。そういうところで何かできないだろうかという気持ちになってね。今思えば、それも一つのきっかけになったのかな。

立河:そうだったのね。

勝村:まだ周知されていないけど淡路大震災を教訓に外国人が理解できるようなわかりやすい日本語の書き方や言葉を使う“やさしい日本語”というのができたの。

立河:例えばどんな日本語?

勝村:「ただいま○○地方で震度○度の地震が発生いたしました。今後津波の恐れがありますので〜」って言われても外国人にはわかりにくいよね。それを「大きい地震がありました、津波が来るかもしれません」とういう感じ。漢字にはふりがなをふって。

立河:なるほど。小さな子に教えてあげるようなイメージね。とてもわかりやすい。

勝村:それはね、震災後あの中学の担任だった瀧本先生を訪ねた時にインスパイアーされたの。

立河:素晴らしい志。えみ子さんの優しさが伝わってくるなぁ。

勝村:これからは色んな国の人に日本語を教えたいな。

立河:そんな中、えみ子さんはボランティア活動を今も継続してるよね。

勝村:私一人では何もできないけど、陸前高田を支援したいと言ってくださって東京の“クラフトマン世田谷”という方たちがいてそのお手伝いをさせてもらってるの。私は地元の人と、ボランティア活動をしてくださる方の架け橋でサポート役。

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立河:私も今年のイベントはお邪魔しましたが、えみ子さんらしい関わり方だよね。自分のやれることを丁寧にやるっていう。

勝村:クラフトマン世田谷のみんなは木工を始めいろいろな職人さんというかプロだからね。ものづくりを通して支援できることを続けているの。子供達が遊ぶ場所としてツリーハウスを作るときワークショップを開いてそれぞれに仕事を与えて切ったり塗ったりをやってもらうと、みんなやったって実感が持てて楽しいじゃない?それがボランティアだよねって。続けていくうちに何か地元の人たちとできるアクティビティを考えましょうってことになってね、去年はピザ釜を作ってピザを焼いたの。地元の人たちにも食材を提供してもらいみんなでピザを焼いて食べたの。そういったことを繰り返しているうちに、みんなが楽しみにしてくれるようになって。

立河:なるほど。募金を集めて寄付するだけではなく、“楽しんでもらう”っていうことが目的のボランティア活動なのね!

勝村:うん。しかもボランティアという精神も今では向こうにいる友達に会いに行くっていう感じかも。木工職人の男性陣の他に女性陣の“癒し部”もあってそれぞれマッサージやカウンセリングなどのテクニックを持っていて、無料でするの。向こうで男性陣はピザ釜を作っている間に、こちらではゆったりとマッサージで癒してあげるというのが形になってきて。みんな交通費など自腹で来てくれてるので私は本当に頭が下がる思いです。

立河:こうして人生で色んなことを体験してるえみ子さん。最後にえみ子さんのアイデンティティを聞かせてください。

勝村:まだ私は何者にもなっていないと思うの。地に足のついていない時代を模索してちょっと頑張っていた時もあったんだけど(笑)53年生きてきて感じているのは、基本的に私は“ニュートラル”でいるべきだと思ってる。でも振り幅の大きな人間を目指してるの。

立河:それは物事に対する理解を深めるということ?

勝村:そうね。人のことも、自分自身のことも物事を決めつけない。そうなるためには常にニュートラルでいないと物が見えないっていう考え方かな。振り幅っていうのは例えば静かにすました自分もいるし、ものすごくおチャラけてギャグばっかり言ってるような自分もいる。私はこれだけですっていうのはすごく寂しいから、できるのならさらけ出してこういうのも私ですってやっていたいなって。

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立河:広い意味でいろんなことを受け入れるってことなのね。

勝村:うん。“老い”もニュートラルでいないと感じられない。必要以上に敏感になることはないと思ってるの。更年期もね、老いの一つではあるけど、自然なことだしいいんじゃない?気にしなくて。って(笑)でも病気は別よ。ニュートラルでいると自分の体の声にも耳を傾けられて、本能的な勘も冴えるからいつもと違う体調を察したら、お医者さんに診てもらおうって判断ができるようになるもんね。

立河:年齢を重ねることに敏感になりすぎない。えみ子さんのアイデンティティは“ニュートラル”。それは流れるそよ風のように柔軟に生きるってことなんですね。私の知るえみ子さんそのもの。それがえみ子さんの美しさや強さに繋がってるのがとてもよくわかりました。素敵なお話ありがとうございました。

取材/文 タチカワ ノリコ
Photo Kaoru Yamamoto

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次回は、新しいゲストをお迎えいたします。お楽しみに!

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